音楽という情報

音楽を聴くとき、音楽を聴いているというより音楽に付随する情報を聴いているような気になることがよくある。それは自分に対してだけではなく、多くの人に対しても。

音楽の内容は音である(とする)。現代の音楽は一般的に曲名というものがつく。またいずれかのジャンルに分類される。作曲者、編曲者もしっかりわかる。それらは音楽の内容ではなく言うならばパッケージである。曲名は音楽の内容ではない。しかし、例えば「雨」という曲があったとして、聴く人は音を聴く前から雨を想像したりする(させられる)。雨だったらこういう音だろうな、こういう空気感だろうな、と思いつつ聴いてみるとやっぱりそうだ、これは雨をよく表しているとか、いやこれは雨なのだろうか......とか思ったりする。

またジャンルというのもそれでRockって書いてあるのにRockっぽくない!とかJazzなのにJazzっぽくない!とかそういう経験は稀にある。曲を探す時お気に入りの作曲者編曲者(同人で言えばサークル)で探すのは普通にやる。

別にこれらの行動が問題とは思わないし、問題だとしても回避することは殆ど不可能に思える。それらの情報は探すまでもなく与えられるものだから。

でも、「あの作曲者の曲だから聴こう。いい曲なんだろうな」とか「こういう曲名だからこういう曲なんだろうな」とか、そういうのは先入観として音楽に対しても働いてしまっている気がする。要するに音楽以外のものが音楽に作用している、音楽になってしまっているのではないかという疑問、というか違和感で。

音楽の内容は音である、というのは違うのでは?曲名も音楽の内容と言えるのでは?と考えることもできる。しかしもし曲名が音楽の内容足り得るとしてそれならば曲名だけの音楽も存在して良いはずである。しかし曲名だけのものは音楽とは言わない。こんなことを言うと「ジョン・ケージの4分云々を知らないな」と言われちゃいそうだが、あれは無音という音楽である。曲名はTxtファイル、ジョン・ケージ4分33秒は4分ちょっとの無音のWAVファイルと考えることもできる。txtファイルを指して音楽という人は恐らくいない。

(↑ここら辺あとで読み返してみたらすごく頭悪そうな感じですが、消すのもあれなのでそのままで......別に曲名が音楽の内容足り得るとしても曲名だけで音楽として成立する必要はないような気がします)

 

なんだろう、纏まらないですね。お風呂で考えてしまったので文章化してみましたが、考えというのは浮かんだ時が一番言いたいことの的を射ている結晶化されたもので、あとで復元しようとしてもノイズが混じってしまう気がします。ノイズばかりの文章ですみません。

曲名やジャンル、作曲者という情報はいらない、用語的に言えば絶対音楽的価値観は標題音楽よりも尊いものである、というのが僕の考えなのですが、しかし頭ではそう思っていても好みとして曲名を考えたり曲名から想像したりするのが好きなんです。頭で考えることと好みが違う、というねじれから生ずる矛盾が自分の行動に多分に見られるので、自分はダメな人間だなぁと思ったりします。