音楽的であるとは。或いは東方的であるとは

曲を書くときはいつもイメージを膨らませてから書く。なぜならそれが楽な方法であるから。もし何のイメージもなしに音を紡いでいけるならそうするだろう。ある曲を書こうとしたとき、何のイメージもなく作曲、或いは編曲するのは大変難しい。雨、とか風とか魔女とか、そういう言葉があればすぐにどういう音楽か、どういう音色が合うかなどが浮かぶ。要するに方針が建てられるのである。であるから、曲名はイメージに則する。しかしそれは曲を書き進めるために必要な要素であって鑑賞時に参考にするのは必ずしも正しいとは言えない。「雨空」という曲があったとしてそれを聴くときに雨の空を思い浮かべる必要はないと思うし、曲から連想される必要もあるまい。音楽はただ音楽として心地よければそれで沢山だと思う。言葉によって表現できる情緒なら言葉を並べればよいのであって、音楽でやる必要もないと思う。

音楽を聴いていて、なんでこの音がここに入ってるんだろう?なんでここでこの音色なんだろう?と疑問に思う場面に遭遇することがある。そしてそれが良い音楽に聴こえるとき、必然を孕んだ音よりもずっと音楽的に感じる。このサビは盛り上がるからトランペットがメロディだよね。ここは童話っぽく優しいコードだからBellの音色で行こう。もちろん曲を作るときはそういう意識、或いは経験則によって進めていくのだが、ふとそうでない音が入れたくなる、無意識に弾いてしまう時がある。そういうものが書けると、良いものが書けたと思う。それは無意識から来たものだから、きっと自分にも理解ができず、面白く見える、聴こえるのだろう。人は常に理解できないもの/知らないものへ興味が沸くものだと思う。自分で作った音楽が比較的詰まらなく聴こえるのは、自分で書いた知っている音ばかりなる所に拠るだろうと睨んでいる。だから無意識に書けた、自分でも説明できない音が嬉しい。音楽的とは僕にとってはそういう響きである。

 

東方的な音楽があったとする。音楽的には東方っぽく聴こえる。だからこそ東方風自作曲と呼ばれているのだと思う。しかし東方的、をZUNさん的、と言い換えると途端にそれは東方的だろうか?と概念に対して疑問が沸く。姫神に憧れて曲を書き始めたというZUNさんだが、音楽的には姫神ニューエイジとは独立している。影響は感じるが明確に似ているとは言えない音楽。しかし東方をプレイしていて、或いは音楽室のコメントを読んでいてそこかしこに姫神の魂とも言えるような言葉、考えを発見する。日本人が持っている、或いは持っていた精神、宮沢賢治がイーハトーヴォを描いたように理想郷を己に持つ心。そういうものを引き継いでいる(そこらへんはプレインエイジアの曲コメントに如実に表れている)。

おかしな仮定だが、もしZUNさんが東方に憧れて東方風を書くとしたら、音楽的にはオリジナルなものに聴こえるような気がする。しかしそこに天邪鬼であると同時に、東方的な精神が宿っているのだろう。東方的である音楽は、僕にはあまり東方的に感じられない。それは聴覚としての感覚ではなく、もちろん思考からくるものである。だから、音楽ジャンルの話をする時にはそぐわないかも知れない。しかし音楽にしても絵画にしても、そこには必ず文脈がある。ジョン・ケージ4分33秒をおかしなものとして、ややもするとふざけた音楽として捉えられるのは音楽史から切り離せば当然だが、20世紀の調性崩壊以降袋小路に陥った西洋音楽史を知っている人からすれば笑い事ではないだろう。

もし自分がこれからも東方風を続けられるとしたら、ZUNさんの、東方の、東方的な精神で曲やアルバムを作っていきたい。それはこれまでもそうだったのだが、これからもそうである。