東方風と作者が言えば東方風?

この界隈では度々この言葉が繰り返されているように思う。それは東方風という音楽が取りうる範囲はどこまでなのか、それを制限することはできるのか、いやできない、というようなことから生じていることだと推測する。

まず、この”東方風と作者が言えば東方風”というのは明らかな誤謬だと私は思っている。なぜなら作者が自分の曲を東方風自作曲として世間に発表しているとき、その裏には何らかの”東方風”を名乗る理由を自身に持っているものだと思うから。例えば、「東方の曲が好きでそんな音楽を自分でも書きたい。実際に書いてみたよ!」とか「自分でもZUNさんの音源とか雰囲気を真似て曲を作ってみた!」とか。この場合、東方風として発表された楽曲は作者が東方風として発表したから東方風なのだろうか。否、やはりそうではあるまい。

この裏側にあるものをうまく言葉にすることができない、というのは誰しもあることだと思う。そういう言葉にできない感覚は、私は”匂い”とか言ったりするのだが、言葉にできない感覚を無理に言葉にしようとしたり、ウヤムヤにしようとしたりする必要はないのだ。”東方風と作者が言えば東方風”というのは、言葉にできないことを有耶無耶にしてしまっているのではないかと私は思ったりする。説明のすり替えに思えてしまう。

すみません。つい考えてしまっただけです。これを読んで傷ついてしまった人がいたらごめんなさい。